前回紹介した国際日本文化研究センター所蔵の着色写真。現在は存在する、城の周囲の堀が見えない。
左の拡大。石垣のすぐ傍に標柱(陸軍管轄地)があるように見える。二条城は明治6年(1873)、陸軍の管轄になっている。
大阪府池田師範学校元教諭北岸英雄氏旧蔵写真。明治30年頃か。上の写真より近づいた場所からの撮影であるため、櫓の直下には堀が見えないが、東大手門の方には堀が見える。櫓下の石垣は、上から数えて7段。
上の古写真の現状。当然だが、石の一つひとつに至るまで全く同じ。上の写真では、櫓から数えて6段目まで見えているが、現状では堀に到達するまで石垣は8段。
「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」(明治9)より、二条城(京都府庁)を描いた部分。城の周囲には堀が巡っている。
京都府総合資料館蔵「二条城借受定約並本丸返戻一件」所収の図。明治12年に京都府が陸軍省に提出したもの。こちらにも現在と同じく堀がある。堀幅九間との記載もある。
京都府庁と表題のついた写真。奥に見えるのは二の丸御殿車寄。『京都名所撮影』「JAPAN KIYOTOMEISHO PHTOGRAPHER」所収。
少し拡大。唐門脇と奥の車寄脇に提灯が一対ずつ置かれているのが分かる。
更に拡大。車寄には菊の紋の入った幕が張られている。唐門の装飾には徳川の葵紋が残る。現状との最大の違いは屋根。明治までは瓦葺きだった。奥に見える玄関車寄の屋根も瓦葺きだったことが見てとれる。
現在の唐門。離宮となった際に、紋は菊に統一されている。屋根は檜皮葺。二条城は唐門と車寄だけが檜皮葺となっている。
府庁時代の東大手門。現状とほとんど変わらない。
現在の東大手門。昔も今も、ここが二条城の正面入口である。